第二番 法然寺(法然寺の御詠歌)

おぼつかな 誰か言いけん 小松とは雲をささふる 高松の枝

法然上人二十五霊場巡りに参加して
清水組 実相寺支部 中村 康祐

法然上人ゆかりの二十五霊場の中に『法然寺』という寺が二ヶ寺あります。第二番と定められた法然寺は、法然上人御流罪に縁深い四国の地に建つ寺院です。

2-1建永二年(1207)法然上人七十五歳になられた年、急速に弘まる念仏の教えに法難が降り掛かります。当時法然上人の門下の中でも花形であった住蓮と安楽の二人が、院の女房と密通したという疑いを掛けられ、その責任をとって師匠である法然上人は四国配流の身となられました。

法然上人は静かに配流の宣下をお受止めになり、恨みとされることなく、むしろ四国の地に念仏を伝えることができることを良縁とお受け止めになられたのでした。

こうして四国の地に赴かれた法然上人は、赦免の宣旨が下るまでの数ヶ月、讃岐国小松庄の正福寺(香川県満濃町2-2)に逗留されました。ところが、この寺は、後に炎上等の災害により荒廃してしまいました。

そこで高松藩祖となった松平賴重(水戸光圀の兄)が、法然上人をお慕いして、自らの城下南に場所を移して復興し、法然寺と名を改めたのでした。以来、法然上人が滞在された地とは多少場所を隔てていますが、二十五霊場第二番として重んじられてきました。その為、霊場の中でも特殊な寺院とされています。

しかしながら、私はこの寺が霊場と定められていることに、法然上人の尊さを感じています。法然上人は生前、弟子から
「古来より、高僧と呼ばれたお方には遺跡となる建物があります。法然上人は未だ一つもありません。どこを遺跡と定めればよいですか。」と尋ねられ、

2-3「後を一つに定めれば、念仏の教えがそこに留まってしまう。念仏の声する処は、皆、わが遺跡と思うて、念仏に励んでほしい。」 とお応えになられいます。

これは、自らの名声が残ることを望まれず、苦しみ悩みを持つ人が阿弥陀様の慈悲を頼みとして念仏申し、安心を得て生きていくことを
偏に願われた法然上人のお人柄が偲ばれるお言葉であります。
法然上人が滞在された地と場所を隔てたこの寺が霊場と定められていることで、かえって法然上人の御心が伝わってくるように思えるのでした。
また、この寺に配されたご詠歌は、

『おぼつかな 誰か言いけん 小松とは雲をささうる 高松の枝』

「念仏は小さな松のように頼りない教えではない。雲をも支えるような高松である。冬の野辺にも枯れない高松である。」と、法然上人の声が聞こえてくるようなお歌です。

2-4境内は、法然上人の示された教えが体感できる大伽藍となっています。十王堂から参道を経て、黒門、仁王門、階段を上ると、釈迦弥陀二尊の教えを受ける二尊堂(現在焼失)へと続き、その先に念仏者を迎える阿弥陀様の来迎堂があります。さらに江戸時代には、参道両側に池があり、二河白道の教えを示していたということです。

現在は一方の池が仏生山小学校となっているとのことですが、その話を聞いただけで壮大な境内地の全貌が伝わってきます。
その他にも、歴代住職の尊像、八百年大遠忌に建立された五重塔、福祉事業施設など、見応えのある寺院であります

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