元祖 法然上人(ほうねんしょうにん)

年表
西暦 年齢
1133 1 美作国(岡山県)にて誕生。幼名勢至丸。
父・漆間時国(押領使) 母・秦氏。
1141 9 父が明石定明の夜討を受けて死去。父の遺言により出家。
1147 15 比叡山に登る。
1150 18 黒谷青龍寺に隠遁。法然房源空と名づけられる。
1175 43 浄土宗開宗。比叡山を降りる。
1198 66 九条兼実の求めにより、「選択本願念佛集」を著す。
1199 67 二祖 聖光上人に「選択本願念佛集」を授ける。
1204 72 聖光上人(43)を九州に帰す。浄土宗二祖を託す。
1207 75 四国に流罪。
1212 80 「一枚起請文」を源智上人に与える。
1月25日 東山(今の知恩院)にてご往生。

 

①はじめに(一枚起請文(いちまいきしょうもん)を拝して)

皆様は一枚起請文をご存知でしょうか。
浄土宗を開かれた法然上人がご往生される二日前にお書き残された神仏に誓った裏のない言葉でございます。
「ただ往生極楽の為にはお念仏しかない。智者の振る舞いなどせずに一筋に念仏を称えよ」
と示された言葉にはどのような人生があったのでしょうか。

 

②法然上人幼少期(会者定離(えしゃじょうり)の理に涙して)

法然上人は、平安末期の1133年にご誕生されました。
父は漆間時国(うるま ときくに)、母は泰氏(はたうじ)です。

子宝に恵まれなかったご両親は少し離れた岩間の観音様まで毎日お参りをした所、ある夜、泰氏が剃刀(かみそり)を飲み込む夢を見ました。
剃刀は仏門に入られた方が髪を落とす為に使うもの。
きっとで立派な人間になるのだろうと喜んでおりました。
幼名は勢至丸(せいしまる)といいます。
阿弥陀様の傍に仕える勢至菩薩(せいしぼさつ)から頂いたお名前。
とても仏縁の深いお生まれでした。

時国は押領使(おうりょうし)という地方警官のような役職でした。
明石源内武者定明(あかし げんないむしゃ さだあきら)というものとの土地での争いがあり、ついに夜襲を受け43歳で命を落としました。
その時、時国は勢至丸に遺言を残します。
「恨みに恨みで返せばお前もいつか恨みによって命を奪われる。勢至丸。お前は仏門に進み、苦しみの世を離れるのだ」
その時、勢至丸わずか9歳(今の7~8歳)でした。

武士としての敵討ちをすることを諫(いさ)められ、恨みの連鎖を断ち真の幸せを求める仏道を勧められた勢至丸は叔父のお寺に引き取られ、仏教の手解きを受けることになりました。
学習能力が素晴らしく自分の手元に置くには惜しい人材だと思い、叔父は勢至丸に比叡山に登る事を勧めます。
父の遺言を思い出し、勢至丸は比叡山に登る事を決意します。
当時比叡山は女人禁制。
母が子に会う事など許されず、一度比叡山に登れば認められるまで降りる事が許されない。母である泰氏は、勢至丸を抱きしめて涙を流して送り出しました。
「かたみとて はかなきおやのとどめてし このわかれさへ またいかにせん」
(死別した夫の忘れ形見の息子との別れに、私はどうしたら良いのでしょうか)
法然上人の幼少の時代は、父と死別し母と別れる。
無常の世を噛み締め多くの悲しみを背負うお姿でありました。
この時勢至丸15歳でありました。

 

③法然上人青年期(聖道門(しょうどうもん)から浄土門(じょうどもん)へ帰入(きにゅう)する)

比叡山に登られた勢至丸は叔父と旧知の仲である「源光(げんこう)」の師事を得ることとなりました。
その時、叔父が持たせた手紙には、「進上大聖文殊像一体(しんじょう だいしょうもんじゅぞう いったい)」(文殊菩薩のように智恵の優れたものを預かって欲しい)と書かれていました。
「源光」の元、文殊菩薩の名に恥じない優れた才能を持って仏教の理解を深めて行きます。

そして、学僧である「皇円(こうえん)」の元で修行を重ね、出家、受戒を受ける事となりました。
その時の戒師が「叡空(えいくう)」であったので、最初の師である「源光」の「源」と「叡空」の「空」の二字を頂き、「源空(げんくう)」という僧名をいただき、「法然坊源空(ほうねんぼうげんくう)」(以下呼称を法然上人とする)となりました。
師匠の「皇円」は法然上人に天台宗の座主になって欲しいと願っておりました。
しかし法然上人には父の遺言である、「恨み合う世界に留まるのではなく仏門を進み苦しみの世を離れる事を求めよ」の言葉がずっと残っておりました。
当時比叡山は僧兵を抱え権力に溺れる姿がありました。それは法然上人の求めるものとはかけ離れておりました。

18歳で「皇円」の元から離れ、西塔黒谷(さいとうくろだに)にある青龍寺に身を移しました。
青龍寺は仏法を論じ、夏は湿気が酷く、冬は寒さ厳しく、清貧な暮らしをする場所(論湿寒貧(ろんしつかんぴん))でした。
戒師を務めてくださった「叡空」がおられたこの場所で仏教を学び、自分と照らし合わせながらわが身が救われる教えを求めてゆかれました。

24歳で仏法を求める為に比叡山を降りる許可を頂き、嵯峨の清涼寺に寄られます。
生身の釈迦像と言われる、お釈迦様を在りし時の姿を刻まれた仏像の前で7日間のお篭りをされました。
そこで法然上人が見たものは比叡山での学僧たちがあれこれと議論する姿ではなく、苦しみや悲しみに涙を流し釈迦如来にただただ救いを求めるお姿でした。
一部の人だけが議論を交わしながら知識を深める教えではなく、多くの人が仏教によって苦しみから救われる道があるはずだ。
法然上人は比叡山以外に仏教の根付く奈良の南都六宗を尋ねて自分が救われ、多くの人が救われる道を探し求められました。
しかし、どこに行っても知的理解に過ぎず、わが身に引き当てた時に現実的な修行ではなかった。

法然上人は青龍寺に戻り、5024巻ある一切経を5度読まれた。
地獄一直線の私が救われる教えをお釈迦様は残してくださらなかったのか。
嵯峨の清涼寺で嘆き悲しみ祈るしか出来ない人たちにお釈迦様は救いの道を示してくださらないのか。
気がつけば18歳から25年間、経を読み修行に明け暮れておりました。

阿弥陀仏の生まれ変わりと賞された中国善導大師(ぜんどうだいし)が書かれた観経疏を更に3度読まれて、ついに、お念仏を称えて阿弥陀仏の本願(ほんがん)の力によって西方極楽浄土に往生を願う事こそがこの私の救いの道であり、祈るしか出来ない人たちにとっては唯一の救いの道であることを受け止められました。
戒すら保てず絶望の中で捜し求めた法然上人にとって、幼少より求めに求めた父の遺言を果たしこの私が救われる教えがあった喜び、そして阿弥陀仏がずっとずっと前から私に救いのみ手を差し伸べてくださっておられた事へのかたじけない思いが溢れて涙が幾筋も流れ落ち、お念仏を申さずにはおられなかった。
43歳春の事でございました。

 

④念仏の広がり(凡夫の我ら、阿弥陀仏にすがる)

念仏一行で救われる事を確信した法然上人は、比叡山を降り東山(今の知恩院の地)に草庵を設け、多くの方に阿弥陀仏の慈悲を、お念仏を称える事を広めてくださいました。
法然上人の噂は瞬く間に広がり、天台宗の(後に座主になられた)「顕真法印(けんしんほういん)」にも届きました。
互いに手紙のやり取りでお念仏の受け取りを確認した後、「顕真法印」がこれは皆で議論をするべきだとお考えになられて、大原にある勝林院(しょうりんいん)にて天台宗をはじめとした各宗派の学者が集まり論壇が行われました。
全ての宗派の教えは元を辿ればお釈迦様のお言葉。
どれも間違いはないし優劣もない。
教えを選ぶのではなく、私たちの素質・能力を見た時、生死の世界を離れて仏に向かう教えは阿弥陀仏にすがるお念仏の教えしかないのではないか。
法然上人は、仏教を全て学んだとしても私にはその一つも応える事が出来ない愚かな姿であるとご自身を見つめられて、お念仏こそが私が救われる教えであり、全ての者を選ばずに救われる教えであると示されました。
その場に居合わせた多くの僧侶は宗派を超えて共に勝林院の阿弥陀仏の周りでお念仏を称えられました。
その声は三日三晩続き、大原の里を念仏の声で埋め尽くしたといわれております。

お念仏の広がりは留まることを知らず、上は皇族、貴族。他宗の僧侶や源氏、平氏の武士、陰陽師、漁師、遊女、下は盗賊まで、多くの方が法然上人に出会われてお念仏の教えに喜び、生涯に渡っての念仏行者になられていきました。
源氏の猛将であり、「敦盛(あつもり)の最後」で有名な「熊谷直実(くまがい なおざね)」も、自分の血塗られた過去を見つめ、これだけの罪を重ねれば後の世が地獄一直線であることを恐れ、我が身が救われる教えを求めて法然上人の元に尋ねて行かれました。
平氏では、戦の中で部下が東大寺を焼き討ちし、仏を焼くという恐ろしい罪を抱えたまま処刑される「平重衡(たいらの しげひら)」にお会いになりました。お念仏一行だけで良い。他には奥深いこともなく、我が身がどれだけ恐ろしい罪を抱えていようとも、阿弥陀仏の救いを信じてお念仏を称える。
命の奪い合いをしてきた源氏平氏の武将たちがそれぞれに涙を流し、残りの人生をお念仏に捧げていきました。

 

⑤『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を二祖聖光(しょうこう)上人へ(お念仏の教えを正しく残す)

法然上人66歳の時、権力者であった関白職の九条兼実(くじょう かねざね)の求めにより『選択本願念仏集』(以下、略して選択集(せんちゃくしゅう)と記す)を撰述(せんじゅつ)されました。
『選択集』とは、お釈迦様のお経と中国の善導大師のお言葉を引用して、阿弥陀様が選び、お釈迦様が勧め、諸仏諸菩薩が勧める(選択)お念仏の大切さを示す16章にも及ぶ書。
お念仏の教えの全てが凝縮された集大成、法然上人の念仏信仰の証とも言えます。
この『選択集』が完成された翌年、弟子の「聖光上人」に『選択集』をお授けになられました。
その五年後、京都の地で浄土宗の弾圧が激しくなると、「聖光上人」は九州に帰される事となりました。
お念仏の正しい教えが消えてしまわぬように。
お念仏の教えを正しく残す為に。

 

⑥流罪から往生(滅後の邪義を防がんが為に)

法然上人が示されたお念仏のお教えは法然上人の意図せぬ広がり方を見せてきました。
「お念仏こそが正しく他の教えや修行は役立たずだ。修行などいらない。」
「罪を作るのは仕方がない、だから戒などいらない。」
法然上人は、他の教えも同じお釈迦様が説かれた教え。
戒もお釈迦様のお言葉であります。
しかし、法然上人の思いは末端まで伝わらず、既存の仏教を批判することとなってしまいました。

法然上人はすぐさま、「七箇条の制誡」という念仏者に対する戒めを記し、他宗の方々に申し開きをしました。
しかし、それだけでは他宗からの弾圧は収めることが出来ませんでした。
弟子の不祥事もあり、弟子は処刑、法然上人は流罪となりました。
この時法然上人75歳。

弟子たちは法然上人に「ほとぼりが冷めるまでの暫くの間、お念仏を広めることを止めては如何でしょうか。」
と提言されましたが、法然上人は「たとえ死刑になってもお念仏の教えだけは言わずにはおられない。」
と申して聞き入れることはありませんでした。
讃岐(さぬき)の地に流罪となり、その後暫くは大阪勝尾寺に留まりました。

その後、天皇のお許しをいただき法然上人は京都の地に入る事が許されました。
79歳の暮れの事でございます。
翌年80歳の正月に入り、体調を崩された法然上人。
病床の中でもお念仏の声は大きかった。
弟子の一人が「他の宗派の祖師は遺跡(ゆいせき)を構えておりますが、どちらに構えましょうか。」とお聞きすると、「一つの場所を定めると、他の場所にお念仏が行き渡らない。お念仏の声する所が私の遺跡です。」とお答えになられた。
最後まで自分の栄誉などは差し置いてお念仏のみ教えが広まることのみを望まれました。

そして、正月23日、弟子の源智上人に請われてお書き残しくださったのが、「一枚起請文」。
その二日後の正月25日、最後の最後までお念仏を称えながら、頭を北、顔を西に向け微笑みを絶やさず「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨(こうみょうへんじょう じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)」(阿弥陀仏の救いの光は全ての世界の念仏を称える者を極楽浄土へすくい取り、絶対捨てることはない)と称えて、眠るようにご往生をされました。

『元祖大師御遺訓一枚起請文』
唐土我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊の憐れみに外れ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

 

⑦終わりに(ただ一向に念仏すべし)

幼少で父母と別れ無常を感じ、我が身をとことん見つめて悟りから遠く離れた存在だと認め、ただただ阿弥陀仏の救いに喜びを感じながらお念仏を称えること、伝えることに人生の全てを注がれた法然上人。
その思いを凝縮された「一枚起請文」を拝読しながら、お念仏の教えが今の世に残る法然上人、聖光上人のご苦労を思いながら、お念仏の教えを受け取る私たちも「ただ一向に念仏すべし」でありたいものです。

参考文献 「図解法然上人」

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