第六番 四天王寺念仏堂の御詠歌(うつせみの御詠歌)

『阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の もぬけ果てたる 声ぞ涼しき』

実相寺住職 中村康祐

法然上人二十五霊場の中に名を連ねる四天王寺は、甲子園球場の三倍の広さを有する日本仏教の代表的な寺院です。
推古元年〈593〉、聖徳太子が国家鎮護と衆生救済の為に、仏教の守護神である四天王を奉安し、仏教思想に則った「四箇院の制(四箇院=敬田院[現代の寺院]・施薬院[薬局]・療病院[病院]・悲田院[社会福祉施設] )」をもって建立したのがはじまりです。

極楽浄土との結び付きも深く、平安時代後期の『四天王寺縁起』に、四天王寺五重塔と金堂は極楽の東門に当たると書かれたことから、「四天王寺にお参りすれば救われる」「四天王寺の西門は極楽浄土に通じる」との信仰が起こり、沈む夕日を拝みながら極楽を想う日想観という修行の聖地になっていたと言われます。
その信仰は現在にも受け継がれ、境内の日本庭園は『極楽浄土の庭』と名付けられ、法然上人が大切にされた教えの一つ、善導大師『二河白道の喩』に基づいて作庭されています。
また、西門の石鳥居に掲げられる額は箕の形をしていて、すべての人を救う阿弥陀様の本願を表し、「ここはお釈迦様が教えを説く処、まさに極楽の東門である」という意味合いの言葉が記されます。
その先には西大門があり、極楽に通ずる門として『極楽門』と通称されます。

この門は、法然上人の伝記にも登場します。
当時の高僧に高野の明遍という方がありました。
この方は「法然の言うことも尊い所はあるが、念仏一行の選択はあまりに偏った見方である」と法然上人をののしっていたお方でした。
ある晩、明遍の夢の中に四天王寺西門が登場します。
西門の周辺には、親にも、兄弟にも、妻子にも見捨てられた重病人が幾人も横たわっています。
そこに墨染の衣を身につけた聖がたった一人で向かっていき、病人の口元へ小さな貝ですくった重湯を施しては看護し、静かに拝んでいきます。
その姿が実に尊く、通りがかった人に「あの聖はどなたですか」と尋ねると「法然上人です」との応えでした。
明遍は驚いて目を覚まし
「今まで法然上人は、偏っていると思っていたが間違いであった。病人にご馳走を出しても何の役には立たない。重湯こそが必要である。同じように、私が説いてきたご馳走のようなお釈迦様の教えも、相手に合わなければ、何の役にも立たない。念仏こそが病む人の為の教え、重湯である。」
と深く反省し、法然上人を師と仰いで、空阿弥陀仏と名を改めて、念仏に励んだということです。
この夢の地が四天王寺西門であったことは、四天王寺が極楽浄土と縁深い地であることの表れであり、民衆の憧れは益々高まっていきました。

法然上人が直接ご参詣されたのは、文治元年〈1185〉、五十一歳の時(※承安四年〈1174〉や五十三才の時に滞在されたと書かれた典籍もあります。)で、慈円僧正に招かれ、西門の辺りで念仏を唱えて日想観を修されています。
その地には念仏三昧院、念仏堂と呼称される堂宇が建立され、荒廃した後は鳥羽法皇の御誓願により短声堂・引声堂として再建され、それも昭和の戦災で焼失した為、現在は阿弥陀堂を法然上人二十五霊場と定めています。

今回の青年会の参拝では、滞在時間が短かったこともあり、霊場としての法話や詳細な説明をして下さる方はありませんでした。
しかしながら、大阪市民の暮らしの一部となっている境内からは、望めば誰もが仏の教え、念仏の教えを得ることが出来ると教えられます。
出来ることならば、境内をゆっくりと参拝し、夕暮れには極楽浄土を想いながら一心に念仏申したい、そんな法然上人ゆかりの地であります。

この寺に配されたご詠歌は
『阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の もぬけ果てたる 声ぞ涼しき』
(「南無阿弥陀仏」とただただ極楽浄土を想って申す時、私の心はすでに西の彼方、極楽浄土にあります。現世に残るこの体はまるで空蝉の如くもぬけとなり、ただ念仏の声だけが涼しく清々しく響いています。)

夕陽を拝しながら一心に念仏申される法然上人の御声が偲ばれるお歌であります。

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