年表 | ||
西暦 | 年齢 | |
1199 | 1 | 7月27日、石見国那賀郡三隅庄にて誕生。父・藤原円尊、母・伴氏。 |
1209 | 11 | 三智法師の『往生要集』の講説を聞き、浄土を願う。 |
1214 | 16 | 比叡山にて剃髪受戒。 |
1232 | 34 | 母・伴氏死去。1日1万遍のお念仏を称えるようになる。 |
1236 | 38 | 上妻天福寺で聖光上人に会い弟子となる。 |
1237 | 39 | 聖光上人より『末代念仏授手印』を受け『領解末代念仏授手印鈔』を著す。 |
1248 | 50 | 京都、信州、常陸・下総・上総と東西ともに念仏教化につくされる。 |
1256 | 58 | 在阿様の疑問に良忠上人答える。 |
1258 | 60 | 鎌倉を拠点として念仏信仰をひろめる。 |
1287 | 89 | 7月6日、往生を遂げる。 |
三祖 良忠上人(然阿・記主禅師)
浄土宗の元祖・法然上人のお念仏のみ教え「灯火」をしっかり受け継いでいかれた二祖・聖光上人から、正しくみ教えを継承された三祖・良忠上人についてお話させて頂きます。
①幼少時代(感性と知性の豊かな少年)
良忠上人は、正治元年(1199)7月27日、酉の刻(午後六時)にお生まれになります。
誕生の地は、石見国那賀郡三隅庄(いわみのくになかごおりみすみのしょう)と言いまして、現在の島根県浜田市の三隅町という所でお生まれになりました。
お父様を藤原円尊、お母様を伴氏(ともうじ)とおっしゃいました。
お母様がある晩、夢をご覧になって、その夢の中に美しい女性が現れ、お母様伴氏に鏡を差し出したと伝わっております。
その夢をご覧になられた後、子を授かります。
良忠上人は幼い頃から他の子供達と異なって、仏様の前ではしっかり手を合わせ、礼拝をされておりました。
11歳の時、父の館に招かれた三智法師の『往生要集』のお話を聞き、仏さまの世界「浄土」に思いを馳せました。
『往生要集』は生死を繰り返す迷い苦しみの六道輪廻の世界から苦しみのない極楽浄土という世界へ往き生まれていくことができる教えが示されているので、それに感銘されたのです。
13歳になると、出雲国の天台宗寺院である鰐淵寺(がくえんじ)の信暹(しんぜん)法師を師匠とされて仏道修行に入ります。
そして、良忠上人は建暦二年の元旦の朝14歳の時、
五濁(ごじょく)の浮世に生まれしは 恨みかたがた多けれど
念仏往生と聞くときは かへりて 嬉しくなりにけり
(現代語訳)
(穢れたこの世に生まれてしまったことは悲しいことであるけれども、この世でお念仏をお唱えしていれば、必ず後の世は極楽浄土に生まれることができると聞いた時には、かえって嬉しくなった。)
と詠まれます。
鴨長明『方丈記』にこの頃の都に住む人々のことを「少水の魚」のようであったと書き示されております。
人が立っては倒れ、立っては倒れ、まるで少ない水の中で苦しんでいる魚のようであった。
壮絶な飢えと渇きがあったのでしょう。
さらに、戦が絶えない時代です。
鴨川も遺体の山であったと言います。
そんな混乱する時代の中で、良忠上人はお念仏のみ教えに一筋の光を見出されたのです。
阿弥陀様がそんな私たちを救おうと極楽浄土を構えてくださって、そこにはお念仏を申せば往き生まれることができる。
新しい年を迎えることでさえも不安が尽きない中、お念仏に出会えた悦びを詠まれたのです。
法然上人がご往生されるその年の元旦に、後にお念仏を受け継いでいく、良忠上人が10代にしてこのように詠われたことは、本当に尊いことです。
16歳の時には、比叡山においてその黒髪を剃り落とし、大乗菩薩戒を受けて正式な僧侶となられます。
18歳の時には、中国唐の時代の法照禅師(ほっしょうぜんじ)の示された『大聖竹林寺記』1巻をご覧になられました。
このお書物をご覧になって「末法の世の中で、自分の力で悟りを開いていくことは難しい。
ただ阿弥陀様の極楽浄土へ往き生まれたいと願って南無阿弥陀仏と申していこう」と思われたのでしょう。
この事をきっかけに聖道門(この生涯で悟りを得る教え)から、浄土門(この生涯でお念仏を申し阿弥陀仏に極楽浄土へ救って頂く教え)へと転換され、日々お念仏をお唱えする方となられていきました。
このように、良忠上人が幼い頃から感性と知性に長けていたのは、殺伐とした世の中で、「正しく歩んでほしい」というご両親の信仰的なお育てがあったからです。
しかし、貞永元年(1232)34歳の時、お母様がお亡くなりになりました。
それを聞いた良忠上人は故郷へお帰りになられて、石見国の多陀寺に隠棲(いんせい)され、一日一万遍もお念仏をお称えする生活を送られるようになりました。
お母様の極楽浄土往生も願われたのです。
②生仏法師(しょうぶつほっし)と二祖聖光上人との出会い(解るということはどういうことか?)
38歳の時、聖光上人と良忠上人が運命的な出会いをされます。
そのお二人を引き合わせたのが、九州の英彦山の生仏法師という方でした。
浄土宗のみ教えを勉強したいと願われていた生仏法師は、法然上人から直接教えを受けた方を三師「聖光上人・隆寛律師・証空上人」に絞りました。
そして、いずれの師に帰依するべきか、その一人を決めようとされていました。
生仏法師の考えたのは、自分の浅智慧で決めるのではなく、信州善光寺(現在浄土宗の大本山)の阿弥陀様(以下、善光寺如来様)の沙汰を乞おうというものでした。
紙に3名のお名前を認め懐に入れ、九州より信州の善光寺へ向かわれました。
その途中、信州の坂木という所に着いたころ、夢の中に善光寺如来様が現れました。
夢の中で善光寺如来様は「聖光上人のもとへ向かうべきである」というお告げをされたのです。
生仏法師は、善光寺如来様のお告げを受け、聖光上人のもとへ向かう決意をします。
しかし、まだ善光寺へ向かう途中であったので、まずは善光寺へ向かい、御礼にと7日7晩のお参りをされ、それから九州の聖光上人のもとへ歩まれました。
九州へ向かう際、山陰道をお通りになりますと、石見の国の多陀寺の近くで、良忠という念仏者がいることを耳にされます。
「ではその人にもお会いしてみよう」
ということで、良忠上人と出会われます。
生仏法師は、
「先日善光寺如来様より、お念仏の教えを正しく受けたいというならば、聖光上人に聞くべきであるとお告げを受けました。せっかくですからあなたも一緒にいかがですか?」
と良忠上人に尋ねますと、
「それはありがたい、是非私も」
と良忠上人は、生仏法師の後を追い、鎮西(福岡)の地へ向かわれたのです。
初め筑後(久留米)の善導寺(現在浄土宗の大本山)に聖光上人がいらっしゃるということで向かいますが、聖光上人は上妻(こうづま)(八女市)の天福寺に行っておられ留守でした。
勿論善導寺でしばらく待っていればお会いできたのですが、今すぐに聖光上人にお会いしたいという一心で翌日早々に上妻の天福寺へ赴き、聖光上人を訪ねます。
この時、聖光上人(75歳)と良忠上人(38歳)は初めて対面されたのです。
聖光上人には当時50名以上のお弟子がおられたそうですが、自分自身が亡くなった後を任せられるものが見当たりませんでした。
そんな時に、すでに天台、真言をはじめ、各宗の教えを学んだ上でお念仏を称え続けている良忠上人が訪ねてこられたのです。
短い時間言葉を交わしただけで、「この者ならば」と思われたのでしょう。聖光上人は、日夜講義を続けられました。
そして、良忠上人はそれを寝る間も惜しんで学ばれました。
それから翌年に至るまで、浄土教関連の書物はもちろんのこと、戒律のことまで皆悉く聖光上人は良忠上人に口伝えで相伝されました。
さらに聖光上人は、大勢の弟子の中でまだ入門して1年という新参者の良忠上人に対して、浄土宗の正しい御教えが示されたお巻物『末代念仏授手印』や『徹選択集』をお授けになりました。
多くの弟子の中で、どれだけ良忠上人がお念仏のみ教えを正しく受けとめ、信頼されていたかということです。
良忠上人は聖光上人より、然阿弥陀仏(然阿)の号を賜るのです。
こうして、聖光上人は僅か一年足らずのことですが、「一器の水を一器にうつす」が如く、一滴も漏らすことなく法然上人より相伝されたお念仏のみ教えを良忠上人へ正しくお授けされました。
良忠上人もお師匠さまの想いに大変感激されて直ちに筆をとって「わたくしはこのように『末代念仏授手印』を理解しました」ということで、『領解末代念仏授手印』、
略して『領解鈔』を書き示します。
『領解鈔』をお師匠様であられます聖光上人にお見せしますと、聖光上人はそれをご覧になって「自身が撰述した『末代念仏授手印』の受けとめとして誤りはない。
良忠上人こそが、正しい後継者である」と認可されます。
39才の時、良忠上人は聖光上人のお膝元を離れて、諸国を巡ってお念仏の教化を目指し、鎮西の地を旅立たれます。
しかし翌年の1238年2月29日に聖光上人がご往生されます。
それを聞いた良忠上人は、悲しまれることこの上ありませんでした。
お念仏をお称えし、浄土三部経を読まれてお師匠様である聖光上人に感謝とご恩の想いを込められたと伝わっています。
聖光上人も良忠上人も学問を究めたお方でしたが、それを踏まえて上で、お念仏の実践を欠かさない両祖師さまでした。
お念仏のみ教えを「解る」ということは、頭で理解するのではなく、実際に称え続けていく中で、理屈を超え納得するという事です。
③関東におけるお念仏の教化(良忠上人晩年の業績)
40歳以降は、故郷の石見の国へ帰郷した後、安芸の国(広島県)や京都、さらには信州(長野県)・常陸(茨城県)・下総(千葉県)・上総(千葉県)も訪れ、二祖聖光上人から継承したお念仏のみ教えを人々に伝えました。
60歳の頃には、武蔵の国(東京都から横浜市北部)を経て当時政治の中心地であった相模国(神奈川県)の鎌倉へお入りになられます。
北条氏の帰依を受けて悟真寺(後に蓮華寺、大本山光明寺)を創立し、その後も経済的支援も受けるようになり、鎌倉を中心にお念仏のみ教えが弘まっていきました。
78歳の時には、弟子である然空・良空等の願いで京都へ向かいます。
要請の理由は、京都でお念仏のみ教えの受けとめ方が法然門下によって相違し、混乱をしていた為でした。
良忠上人はご高齢であるにも関わらず、その要請を受けて上洛されました。
聖光上人こそ法然上人のお念仏を正しく継承された方。
そのお念仏のみ教えを伝えなければ・・・
切実な思いで、法然上人・聖光上人のお念仏のみ教えを伝えていったのです。
89歳になられ鎌倉に帰った良忠上人は、良暁(りょうぎょう)上人(浄土宗四祖・白旗上人)を正式な後継者として指名されました。
そして、弘安十年(1287)7月6日、良忠上人は89才をもって阿弥陀如来さまの極楽浄土へと往生されました。
④在阿(ざいあ)上人と良忠上人のエピソード(疑問を晴らしたお言葉)
天台宗のお坊さまで在阿上人というお方がおられました。
在阿さまは、結核にかかっていて、血を吐くような病を受けておられました。
「自分の命も幾ばくでもない」と思われていたとき、聖光上人の『末代念仏授手印』をお読みなって、信仰の拠り所とされていました。
ところが、熟読すればするほど、『末代念仏授手印』に様々な疑問が出てまいりました。「どなたかにこの疑問をお聞きしたい」そう思い、最初に遠江国(とうとうみのくに)(今の静岡県)森というところの禅勝房(ぜんしょうぼう)というお方を訪ねました。
この方は晩年大工さんのようなことをして暮らしていた法然上人のお弟子さまです。
この禅勝房さまに疑問を尋ねようとしますと、「私はあなたのように学問も積んでおりませんし年でございますので、残念ながらあなたの疑問に答えることはできません」と断られました。
それではということで、次ぎに在阿様は、相模国(神奈川県)の石河という里(藤沢市)に渋谷道遍という法然上人の息のかかった弟子がおられるということがわかると早速その地へ向かいます。
在阿さまは道遍さまに質問しますが、やはり求めていた回答を得ることができませんでした。
しかし、そこで道遍さまは、「それよりも下総国に良忠上人というお方がおられますよ。
この方は、法然上人から聖光上人へと伝わったお念仏の真髄をしっかりと受けとめられた方であるから、訪ねてみてはいかがでしょうか」と、三祖・良忠上人ことを紹介してくださいます。
「そうですか。そうしましたら、良忠上人のもとを訪ねてみます。」と、在阿様は血を吐くようなお体の中、決死の思いで下総へと向かわれました。
良忠上人58歳の時、在阿様が尋ねてまいりました。
在阿様は良忠上人に『末代念仏授手印』の疑問「三十一項目、七十八ヵ条」を書いて差し出されます。
在阿様の質問は、
「毎日お念仏を申しておりますが、どうしても貪りの心や腹立ちの心が起こってきて、消えることがありません。そういった心は盛んに出てきますが、一方後の世に極楽浄土へ往き生まれたいという心が弱々しいのです。一体どうしたらよろしいのでしょうか?」
というお心うちの素直な告白でした。
すると、良忠上人は、
「貪りの心や腹立ちの心は、いつから具わったものなのか、誰も知るところではありません。私たちがこの世に生まれる以前から、生まれ変わり死に変わりを繰り返して慣れ親しんで具わった法です。ですから、強く起こるのです。」
と、お念仏を申していても貪りや怒りの心が盛んに起こるのは、生き死にを繰り返してきた中で我が身に染みついたものであるとお答えしました。
さらに、
「そうではありますが、極楽浄土に往生したいという願いの心はこの世に生まれて始めて起こった心です。だから弱くて当然です。」
とお答えしました。
貪りや怒りの心が起こることを嘆きながらも、極楽浄土へ往生したいという心が今芽生えて、その道へ向かおうとしている自分であることを喜ぶべきである。
阿弥陀さまはそんな頼りない心の私たちであるからこそ、「南無阿弥陀仏と声に出してまいれよ。我が名を呼ぶのですよ」とお示しくださっている。
良忠上人は、病に苦しむ在阿様に対して、丁寧に喩え話を交えてお答えされました。
この内容が示される書物を『決答授手印疑問鈔』といいます。
在阿様は、良忠上人のお答えに疑いがすべて晴れたと伝わっております。自分の死期が迫っていると感じていた在阿様にとって、良忠上人のお言葉はどれだけ有り難かったことでしょうか。
その身そのまま救ってくださる阿弥陀さまなのだと改めて感動されたのではないでしょうか。
⑤著書
良忠上人は、その生涯をもって法然上人の『選択集』の注釈である『選択伝弘決疑鈔』や、善導大師の『観経疏』の注釈である『観経疏伝通記』、聖光上人の『末代念仏授手印』の注釈である『決答授手印疑問鈔』、浄土宗義の重要なところを二十四箇条にまとめた『浄土宗要集(東宗要)』をまとめられるなど、多くの著書を残されたことから、「記主禅師(きしゅぜんじ)」と讃えられています。
何としても法然上人の正しいみ教えを残したい、そのみ心がこれだけのお書物を残される結果となったのでしょう。
⑥おわりに
政権が次第に関西から関東へと移りゆく激動の時代の中で、法然上人のお念仏のみ教えを求め、さらには誤ったお念仏の解釈が弘まる中で、聖光上人から受けたお念仏のみ教えこそが法然上人直伝のものと命がけで布教されていった良忠上人でした。
著書が多いことから記主禅師と讃えられる由縁は、まさにお念仏の「邪義をふせがんが為に」という切なる願いの表れです。
南無阿弥陀佛
【参考文献】
『良忠上人御絵伝』
林田康順上人『良忠上人御絵伝』解説
正村瑛明上人 五重相伝歓誡録『愚に還る』
浄土宗総合研究所・パネルシアター